ささやかな奈落のはじまり②

入り口で立ちすくんでいると、奥から声がかかった。

「いやぁ、朝早くからご苦労さんでんなぁ」

玲子は声の方を見た。

店の一番奥にその男が座っていた。

禿げ頭で、でっぷりと肥えており、のっぺりとした無表情な顔つきで、玲子を見つめている。男は玲子の頭から爪先まで、鋭い目付きで舐め回した後、急拵えの薄ら笑いを浮かべて近づいて来た。

「よう来てくれはった。よう来てくれはった。あんたはんを待ってましたんや」

聞き覚えのある甲高い声だ。

確か田中という名前だった。多分、本名ではないだろう。

昨夜、あのおぞましい契約書に署名させられたとき、ヤクザの金原の隣にいた男だ。ひどい関西訛りで、場末の猥雑な空気を長年吸って生活をしてきたのだろう、腰がやけに低く、非常に打算的な素振りを見せていたことを玲子は思い出した。

「どうぞ、どうぞ、中へ入って、入って。今頃は店空いてるんや。どこでも自由やさかい、気楽にしたらええわ」

男はまるで自分がこの店の主であるかのようにそういうと、玲子を奥に誘った。玲子は奥に進んで、椅子に腰を下ろした。

「よう来てくれはったなぁ。昨日の今日やさかい、来てくれるやろかと心配してましたんや」

「約束ですから……」

「そうやなあ、約束や。でも、それを違えるアホな人間もおるよってな。あんたはそやなかったんや」

「お仕事はここで?」

「いやいや、ここやない。わしらは、これから旦那様のお屋敷へ出かけますんや」

「遠いのですか?」

「ちょっと距離ありますなぁ。車に乗ってもらいます」

男は玲子の青いスーツケースにちらっと目をやった。

「えらい荷物やなぁ。まるで旅行でもするようや」

「一週間と聞いたから……」

「ああ、そのとおりや。そのとおりやけど……ま、ええ、ええわ……」

男は鼻に皺よせて笑った。

「朝ご飯、食べてきはった?」

「いいえ、あまりおなかが空いてなくて……」

「そうでっか。そやけど、今日は時間が掛かるよって、今のうちに腹拵えしといた方がええわ」

「はい」

「ここのモーニング旨いねんで。飲み物なんにします? ここのコーヒーめっちゃ美味しいけど、それともオレンジジュースでっか?」

「私……」

玲子が口を開きかけると、男は答えも聞かずに奥を振り向いて、「ねーちゃん、ねーちゃん、モーニング一つ持ってきてや。飲み物はオレンジジュースや」と勝手に注文してしまった。

何なの、この男は!

男の勝手な行動にあきれて玲子が睨みつけると、まあるい顔の中で細い目が笑っている。

「今日は長い一日になるさかい、しっかり栄養つけておかんとな。旦那はん、あんたの事、首を長くして待ってはるんやでぇ……」

男はそう言いながら、玲子の胸のあたりをジロジロ見ている。

「そやけど、姉ちゃん、別嬪さんやなぁ。本当にええ女やわ……」

本当に神経にさわる男だった。まとわりつくようなそのしゃべり方が鬱陶しくて、玲子は話をする気にもならない。

  • 筆者
    office-labyrinth
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