ささやかな奈落のはじまり⑩
「おい、これも頼む」
竜造が庭に向かって何か投げた。それが草の上に落ちる。
さっき脱いだワンピースと下着類だ。
丁寧にたたんだものが投げた拍子に崩れている。田中はそれを無造作に拾い上げ、ドラム缶の中に乱暴に放り込んだ。
「やめてえっ!」
玲子は思わず声を荒げた。
着るものがすべて無くなってしまう。
田中は、今度はハンドバッグの中身を物色している。
「財布や! どれどれ……おっ、仰山入っとる! 五万円もあるやんか。これもういらへんやろ。ワシ、もろとくわ」
田中は財布の金を作業着の胸ポケットに放り込む。
「クレジットカードに保険証、医者の診察券か、みんないらへんわなあ」
田中はハンドバックごとドラム缶の中にポイッと放り込んでしまった。
「やめてえっ! それは私の大事な物なのよ。な、何をするのよおっ!」
玲子は大声で叫ぶが、男は薄ら笑いを浮かべるだけである。
何をいっても無駄なのだ。ここでは余りも一方的に物事が進んでいく。
男はつぎに重そうなポリタンクを運んできて、蓋を開けて中身をドラム缶の中に注ぎ込む。
プーンと石油の臭いが漂う。
「ガソリンやでぇ。これでよう燃えるわぁ」
玲子は驚いた。そこまでするとは思わなかったのだ。
なんとか中止させようとわめき続けた。
「止めて、止めて、止めてぇっ! 何をするのっ!」
玲子は必死にもがく。革のベルトが肉に食い込む。
ドクドクとガソリンがドラム缶に注がれていく。
「これでええわ、十分にガソリンが染みこんだわ」
田中は口に煙草を咥えると、火を点けて旨そうに一服した。
青空に向かってプッと白い息を吐く。
「さあ、よう見とりや」
火の点いた煙草がドラム缶の中に放りこまれた。
ボッという音がして、オレンジ色の火柱が立つ。
黒い煙が立ち昇り、炎はメラメラと音立てて、どんどんと大きくなる。
「ああーっ! ひどい、ひどい、ひどい、ひどいわあっ!」
玲子は狂った様に喚き続けていた。
「燃えとる、燃えとる、よう燃えとるわ。みんな灰になってしまうんや。ハハハハハハ……」
玲子は眼を閉じた。自分の所有物が全て燃えていくところなど、見たくなかったのだ。
田中の笑い声が聞こえていた。
直ぐ側で、竜造の無慈悲な声が聞こえた。
「お前の物はすべて処分した。服も下着も燃えてしまった。不要なものばかりだ。ここでは何一つ身につける事を許されないのだからな」
玲子は眼を開けて、もうもうと黒い煙を立ち昇らせているドラム缶を見た。
「あんまりだわ。こんなのひどい!」
玲子は自分の人生がすべて消し去られたように思った。これまでの想い出、そして生きていた証がすべて燃えていく。そして、あとには何も残らない。
もう元へは戻れないのかもしれない。ここで奴隷のまま暮らすのか?
いや、そんなことはないはずだ。玲子は総髪の男の言葉を思い出した。
あの男がいったではないか。契約期間は一週間だ。
一週間、いうことを聞けばいいのだ。
たった一週間だ。それを我慢すれば元に戻れる。
だが、衣服ばかりか、身分を証明するカード類もすっかり燃やされてしまった。それでどうやってここから帰ればいいのか?
「すべて燃えてしまって、私はどんな格好で家に帰ればいいの?」
玲子は訴える。
「帰る?」
竜造が冷たく答えた。
「帰るときのことなど心配する必要は無い」
「どういう意味?」
「お前には過去も未来もない。あるのは今だけだ。いいか、余計なことを考えず、今に集中するのだ。ふふふ、すぐに今以外のことはどうでもよくなるさ」
玲子は竜造が何をいっているのか分からなかった。
過去も未来もない、今だけに集中する?
いったいどういうことだ。それも、すぐにそうなるというのだ。
これから私はどうなってしまうのだろう。
玲子の胸は不安で一杯になった。
田中は相変わらず庭ではしゃいだ声をあげていたが、玲子はもはやそれを聞いていなかった。
「さて、今度はここをきれいにしてやろう」
竜造は玲子の下腹部の濃い翳りを撫でた。これから何が起こるのかが分かって、玲子は身体を固くした。