ささやかな奈落のはじまり⑥

 青年が障子をゆっくり開けた。

十畳はある和室が見えた。真ん中に黒光りするどっしりとした卓が置かれていて、二人の男が向かいあって座っていた。

 玲子に向かって射すくめるような鋭い視線が放射された。

一人は和服姿の老人である。だが、老人といってしまっていいのかどうか……白くなった髪を総髪にしており、七十を過ぎているようにも見える。しかし、張りのいい脂ぎった肌や引き締まった顔は、精気に満ちあふれていた。すべてを見通すような鋭い目がじっと玲子を見つめている。

そして、その前にいる男……その男を見て、玲子は身体中に悪寒が走った。蛇の様だと思ったのだ。痩せた暗い顔の中で目だけがぎらぎらと妖しく光っていた。

「中に入れ」

総髪の男が低い声でいった。

「寺田、あの書類をここに持って来る様に」男は作務衣の青年に指示した。

「はい、旦那様」

寺田と呼ばれた青年は片隅に置かれた黒い鞄を手に取ると、そこから一枚の紙切れを取り出して総髪の男の前に置いた。

男は指でその書類をツーッと玲子の前に押す。

「金原の奴がこれを儂の所に持って来おった。この『浅井』というのはお前の男か?」

署名欄を指差して男は訊いた。

浅井啓太と書かれた、やや右上がりに跳ね上がった署名。その隣に縮こまった自分の署名がある。上には「連帯保証人」とくっきりとした文字。これまでに何度も見た書類だった。

浅井慶太――ハンサムでキザな男。いかにも壊れてしまいそうな痩せた身体を玲子は思い浮かべた。

「はい」

小声で答えると、総髪の男がニヤリと笑った。

「悪い男につかまったものだな。お前はこの男の借金の肩代わりをするのか?」

すでに分かっていたことだった。玲子はこの書類に署名し、印鑑を押した。そして、その結果、今ここにいる。

分かりすぎていることだった。だが、改めて尋ねられると心が揺れた。

「寺田、もう一枚をこれに」

青年は鞄の中からもう一枚、書類を取り出した。

「儂とお前との契約書だ。お前はこれから一週間、儂の奴隷になる。その代償として一千万円をお前に支払う。それで借金は帳消しになり、すこしは余りも出るだろう。お前は一週間ここで過ごし、儂のいう事を何でも聞かなければならない。既にお前のハンコが押されている。合意したということで間違いはないな」

「……」

「黙っていては解らん! 間違いはないかと聞いておる。はっきり返事をせんか!」

男は激しく卓を叩いた。

「は、はい……間違いありません」、

玲子はやっとのことでそう答えた。

「奴隷になるのだな!」

「はい」

「もうひとつ、これも契約書に書いてあることだが、もしお前が一方的に契約を破ったときには、その代償を支払って貰うことになる。これもいいな」

玲子はもう何も聞いていなかった。この場を早く終わらそうと、「はい」と小さな声で返事をした。すると男は急に柔らかな口調になった。

「よし、よし、それでいい。お前にはなかなか良い話だと思う。今どき、一週間で一千万も稼ぐなど、出来る事ではない。お前は一年に幾ら貰っている? 所詮、二、三百万だろう。一週間で、一年に稼ぐ金額の五倍を稼ぐ事ができる。悪い話ではあるまい」

「……」

玲子はあまりにも残酷な現実をまのあたりにして、うなだれるばかりであった。

「さあ、お前のパートナーを紹介しよう」

総髪の男は前に座っている男を指さした。

「こいつは竜造だ。これからお前を仕込んでくれる大切な男だ。竜造、お前の仕事はなんだ?」

蛇の様な男はくっくっと笑いながら、抑揚のない声でいった。

「旦那様、『調教師』でございます……」

  • 筆者
    office-labyrinth
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