アレクサンドロス戦記(七三) 第三章⑭
(七) ニコ、奴隷の群れを見る
マケドニア軍勝利の知らせがアリスベのキャンプにもたらされたのは、ニコが少女ペリボイアと一緒に流星を見た二日後のことであった。その時キャンプにいた者は少なかったが、それでもあちらこちらから歓声が沸いた。料理長のラクリスでさえ嬉しさのあまり、かまどの周囲で踊り回ったほどだった。それから数日して今度は、マケドニア軍はいったんキャンプに戻るが、すぐ次の目的地に出発するので移動の準備をしておけという指令がきた。今度はニコ達も軍と一緒に移動しなければならないようだ。祝勝会もおあずけだという。これを聞いて、大宴会を期待していた料理番の面々はたいへん残念がったが、すぐに荷造りに大わらわとなった。
ニコはこのところ寝不足だ。あの夜以来、毎晩、深夜に寝床を抜け出し、ペリボイアにつきあって夜空を見ていた。彼女はそれでいいだろう。昼間は天幕の中に閉じこもっていて、夜になると活動を開始するのだから。だが、ニコは昼間、働かなければならない。深夜、天幕から抜け出していることはみんなに秘密だったから、眠い目をこすりながら、いかにも平静を装っていたが、もう体力の限界だと思った。軍隊が戻ってくると聞いて、ニコは内心ホッとしたのである。
軍隊に先んじて、何人かがキャンプに戻って来た。その中に予言者アリスタンドロスもいた。アリスタンドロス――でっぷりと太っていて、頭のてっぺんがはげている。威厳を保つために、後ろの髪を長くし、それに負けない長さまでひげを伸ばしている。そのアリスタンドロスが天幕の間を抜けて、ニコの方に歩いてきた。太りすぎのため、短い足でヨチヨチ歩く。その姿はまるで豚そのものだとニコは思った。
――彼奴、これから自分の天幕に帰るんだ。天幕にはペリボイアがいる。二人がいっしょになる。あの狭い天幕の中でペリボイアは彼奴とどんな風に暮していくんだろう?
ニコはみんなが、アリスタンドロスのところならあの娘も安全だと言っていたのを思い出した。
――あれはどういう意味なんだろう?
ニコは心穏やかではない。気になるので天幕の陰に隠れつつ、アリスタンドロスの後を追った。アリスタンドロスが天幕に到着する。入り口の布を持ち上げ中に入る。明かり取りの窓の覆いが持ち上げられた。そして、沈黙。
「なんだあっ、こりゃあああっ!」
天幕の中から大声が聞こえてきた。身体に似合わず甲高い声だ。身体が豚なら、声はガチョウというところか。ニコは大急ぎで天幕に近づいた。声が聞こえる。
「テーブルの上がメチャメチャじゃないかっ! ああっ、ひどいひどい、アストラガルスがこんなところに散らばっている」
声が次第に大きくなり、怒りに満ちた調子になった。
「おいっ、お前、お前はなんてことをしてくれたんだ! ワシの留守中に天幕の中をメチャメチャにして、コイツ、コイツ」
天幕の中でドタドタと音がする。そして、少女の悲鳴。
「こいつめ、こいつめ、ここから出て行け、早く、早く」
「いやっ、いやっ! 外へ出たら、私は死んでしまうの! お願いですから追い出さないで」
「お前が死のうが生きようがワシには関係ない。それより、こんなことをする奴を置いておくわけにはいかない。テーブルの上にきちんと並べてあった大事な大事なアストラガルスが衣装箱のところに飛び散っているじゃないか。ほら、見ろ、壊れているのもあるぞ。こんなことをするなら、いかに陛下のご命令だからといって、お前をワシの天幕に置いておけない。さあ、何をしている。早く出て行かないか」
「許して……」
「出て行かないな。よし、力ずくでも追い出してやる。そうだ! お前を縛って、トラキアの兵士たちにくれやろう。おお、それがいい、それがいいぞ! あの獰猛な獣たちだ、きっとお前をさんざんおもちゃにして楽しんだあげく、剣で切り刻んで、ゆっくりといたぶりながら殺してくれるだろう。それがいい。それがいい」
「や、やめてっ、そ、そんな残酷なこと!」
ペリポイアの泣き声が聞こえた。ニコはもうこれ以上、放っていられなくなって天幕の中に飛び込んだ。
「彼女が悪いんじゃないよ! 僕のせいなんだ」
二人が見えた。ちょうどアリスタンドロスがペリポイアの腕を後ろに捩って手首に革紐を巻き付けようとしていたところだった。不意にニコが飛び込んできたのに驚いて、一瞬手が緩んだ。その隙にペリポイアが男の腕の中からすり抜けて、ニコの後ろに隠れた。
「なんだぁっ、お前は!」
そう叫んで、アリスタンドロスが睨みつける。
「僕はニコだ。料理番をしている」
「その料理番がいったい何の用だ! 人の天幕に勝手に入ってくるなっ!」
「アストラガルスって、あの石ころのこと?」
「石ころ? 石ころとは何じゃ。あれは大事な大事な占いの道具だぞ」
「占いの道具? そうなんだ、テーブルの上に置いてあったアレが占いの道具なんだ」
「だからなんだというのだ!」
「そんな大事なものとは知らないから、料理を置くのに邪魔だから片付けたんだ」
「片付けたのに、どうして衣装箱の周りに飛び散っている!」
「手でどけたら、飛んであそこに転がっていった。みんな僕がしたことだ。彼女は全然、悪くない」
「なんだと! お前はこの娘の何なんだ?」
何て答えようかニコは迷った。
――いったい僕は彼女の何なのか? 僕はただ、料理を持ってきただけだ。そして隠れている彼女が気になって、アストラガルスを投げて、びっくりした彼女を捕まえようとした。でも、彼女の方が強かった。
「僕は……僕はラクリスに言われて、ごはんを運んできただけだ。机の上にこはんを置こうとしたけど、一杯だったから、すき間をつくろうと手でよけた。そしたら、アストラガルスが落ちて転がっていったんだ」
「ふん、そうか……なら、この娘とは何の関係もないってことだな。部外者は早くここから出て行けっ!」
そう言うや、アリスタンドロスは握り拳を振り上げ、ニコに向かって突進してきた。