アレクサンドロス戦記(七八) 第三章⑲

「そこで、あの声が聞こえてきたんだ。あの声――いや、声なんてものじゃない、あれは叫び声だった」

頭が持ち上がる。顔がくしゃくしゃになっていた。
「あ、あれは仲間達の叫び声だった! 悲鳴だ! 断末魔の呻き声だ! 同じギリシャ人同士だから殺すような事はしないだなんて、俺はどうしてそんな馬鹿な事を考えたのだろう。それが何の根拠もない事だということが分かっていた筈なのに。
仲間達の悲鳴――いろいろな声が聞こえてきた。低いの高いの、腹の底から絞り出すような叫び、それがずっと続いているのだ。仲間が次々と殺されている。それも一人ずつ、時間をかけて――。
俺の心臓は張り裂けんばかりだった。だが、俺には何もできなかった。じっと息を潜めて、木立の蔭に隠れて、仲間達が死んでいく声をただ聞いているしか仕様がなかったのだ」
夫の眼に涙が溢れた。声がかすれ、時々ヒクヒクとしゃくり上げる。いかにも儚げに震える肩。バルシネはその背を抱こうと手を伸ばしたが、これもはねのけられてしまった。

「みんな俺のせいだ! 俺が逃げ出したせいなのだ! 彼奴らをこんな負け戦に駆りだした俺が悪いのだ。負け戦――こんな戦やるべきじゃなかったのだ。やる前から結果が明らかだった。それなのに、俺は止められなかった。皆、俺の言葉を聴くべきだった。聞かなかったからこんな事になってしまった……」
そこまで言うと夫は声を上げて泣き始めた。そして拳で何度も床を叩いた。皮膚が破れて血が滲みはじめた。
バルシネは夫の手を取った。今度は手が振り払われることもなかった。そして、その冷い手を両方の掌で挟んで温めた。次第に泣き声が小さくなってきた。少し気持ちが落ち着いてきたらしい。

夫は再び話し出した。
「俺の馬は消えていた。隠れる事に夢中で、馬をつないでおく余裕などなかったのだ。馬が無いと移動できないとあせったが、それはそれで良かったのだと思い直した。身を隠すには馬が無い方が都合がいい。それに、あの馬が発見されたら、皆、俺がすでに死んでいると思うだろう。俺は長い間、じっとその林の中に隠れていた。
日が暮れてきた。もう大丈夫だろうと移動を開始した。日が沈む方向を覚えておいて、それと逆に進めば、家に帰れるはずだった。だが、道に迷ってしまった。星一つ見えない森の中では、方向がつかめなかったのだ。かなり進んだと思ったのに、同じ場所に戻ってしまうこともあった。疲れ果てて、一歩たりとも歩けなくなっていた。俺は絶望のあまり、地面に倒れ込んだ。
身体が動かない。俺はそのまま地面に横たわっていた。このままここで屍になるのも悪くないと思った。仲間を捨てた男には最高のご褒美じゃないか。
その時――俺は気づいたのだ。何か音がする。微かだが低い音が聞こえる。初めは空耳だと思った。疲労のせいで耳鳴りがしているのだと思った。だが、低い音が繰り返し、繰り返し聞こえてくる。いつも聞いている耳慣れた音だった。その音が何だったか、俺は必死に思い出そうとした。そして、それが何か分かった時、俺は嬉しさの余り飛び起きた。そして、音のする方向へ、草をかき分けて進んだ。
こんな力がまだ残っているなんて不思議だった。自然と身体が動いて行くのだ。進むにつれてどんどん音が大きくなってくる。そして、藪を抜けきった時、俺は目の前に広がる海を見たのだ。あれは波の音だった。俺は海のすぐ側まで来ていたのだ」
夫はそこまで言うとゴホゴホと咳き込んだ。そして、咳が収まるとバルシネを見た。その時、バルシネは夫の瞳の中に優しい光が宿っているのを見た。

「海の位置は北だ。だから海に向かって左に歩いて行けば帰れるはずだ。
それから俺は夜通し海岸線を歩いた。月が明るかったからなんとか歩き通すことができたのだ。やがて夜が明けてきた。日中の移動は人目について危険だと思った。だから、昼は森の中に隠れていた。
とても腹が空いていた。昨日から何も口にしていない。幸い森の中で清水と木の実を見つけた。食べれそうなものはなんでも食べた。そして、夜になるとまた移動を続けた。途中にいくつか町があったが、俺はそれを避けて歩いた。
家に帰り着くことだけを考えていた。無事に帰れるように神に祈った。そうすることで勇気が出た。
マケドニアの軍隊に遭遇することがなかったのは本当に神のおかげだ。そして、ようやくここまでたどり着いたのだ」

  • 筆者
    office-labyrinth
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