アレクサンドロス戦記(七六) 第三章⑰

(八)逃亡

 北からの季節風を受けて船は順調に島々の間を進んでいたが、ロードス島の島影が見える所まで来ると、その風がピタリと止んでしまった。さきほどまで張り詰めていた帆が今はだらしなく垂れ下がっている。船は完全に停止していた。
「この分だとキリキアまでだいぶ時間がかかるかもしれませんな……」
顎に髭をたっぷりと蓄えた年老いた船長がバルシネに声をかけた。
「動かないの?」
「こうなると、にっちもさっちもいきません。ただ風を待つしかないのです」
「どのくらい待てばいいのかしら……」
バルシネは静かな海を眺めた。
「さて、こればかりは、風神ボレアスの御心次第というところでしょうか……」
老船長が申し訳なさそうに答えた。
その時、背後で「ママ」という声がして、四五才の男の子がバルシネの脚にすがりついてきた。船の上で退屈したのだろう、召使いのところから母の元まで駆けてきたのだ。
バルシネは抱き上げて海を見せてやる。
「坊や、ほら見えるでしょう。色々な形の島があるわ。まるでお船が浮かんでいるようね。私たちあの島の間を走ってきたのよ。それからね――」
船尾から身体の向きを変えて、バルシネは目の前に迫る島を指差した。
「あれがロードス島、お父様が生まれたところ……」
男の子はじっと母の指差す方向を見つめていたが、いかにも感心したような声を上げた。
「大きいよ。まるでお父様の背中のようだ」
そのうち、子供は島を見る事にも飽きてきて、母の腕からすり抜けると、再び召使いの元へ戻っていった。
独り取り残されたバルシネはまだ目の前の島を見つめていた。夫メムノンとその兄メントルの故郷の島である。


大きな島だ――あの人の背中の様だとはよく言ったものだ。
確かにあの人は大きな背中をしている。がっしりとした胸板、筋肉が盛り上がった肩、棍棒の様な太い腕、バネの様にしなやかな下半身、まさに戦士の身体だった。それは兄弟二人に共通した特徴だ。
陽気でいつも調子のよい勇者メントル、その弟の物静かで理知的なメムノン――全く性格の異なる二人。バルシネはその二人の兄弟の妻となり子供を産んだ。兄のメントルが亡くなったので、弟のところへ嫁いだのである。
夫となったメムノンとは最初からうまくいかなかった。バルシネは毎日、鬱屈とする日々を送っていた。昨日までは――。だが変化があったのだ。大きな変化だった。これからはガラリと生活が変わってしまうだろう。
バルシネは不安だった。夫と離れ、息子を連れて船でキリキアに向かうのである。そして、キリキアからは、さらに父バルバゾスのいるペルシャ帝国の首都スサまで陸路を進む事になっている。
ビクとも動かない船。何もする事がない。ひたすら待つしかないのだ。バルシネは、島影をじっと見つめながら、昨日の出来事を想い出していた。

  • 筆者
    office-labyrinth
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