アレクサンドロス戦記(五九)第二章㉒

「奥様、お目覚めですか? お食事をお持ちしました」
召使いの女の声に、バルシネは跳び上がった。
――いけない! また、私ったら余計なことを考えてしまっている
バルシネは慌てて起き上がり、服をはおる。
「奥様、たいへんです。マケドニアが攻めてきたんですって!」
召使いの女は興奮していた。
「でも、マケドニアと戦を始めてからもうだいぶになるわよ。小競り合いはそんなに珍しいことじゃないわ」
「小競り合いじゃなくって、大軍が海を渡ったそうなんです。それに、マケドニアの王様がイリオンに攻めてきたとか! あんな辺鄙なとこへ、大勢押し寄せてどうするんでしょうね」
「マケドニアの王様?」
「ええ、荷物を運んできた船長さんが言ってました。もう、北の方はえらい騒ぎでそうです。王様はとても若くてハンサムだだそうですよ……」
バルシネは何ヶ月か前の夫との会話を思い出した。
「マケドニアの王子を憶えているか? 名前はアレクサンドロス」
その朝、メムノンがなにげなく、その話題を持ち出したのだ。
「アレクサンドロス?」
「そうだ私たちがペラの宮殿にいた頃に会っている。知っているはずだ」
そう言われてバルシネは記憶を辿った。
マケドニアの首都ペラ……ギリシャ風の宮殿……フィリポッスの子供たち……そして、王子……男の子……たしか五歳くらいの男の子……あの子だろうか? 大人っぽい口調で話す可愛い顔の男の子。
「その王子がどうしたの?」バルシネは尋ねた。
「マケドニアの王になって、ペルシアに攻めてくるだろう」
夫は相変わらず世間話をしているかのようである。
「えっ! 攻めてくるって、どうして?」
「本当の事は分からない。だが、昔の恨みだということだ」
「昔の恨み?」
「そう、ペルシアとギリシャは昔から仲が悪い。攻めたり攻められたり。馬鹿なことだ。力の差は歴然としているのだから」
「いつ、攻めてくるの?」
「分からない。だが、あの子は恐ろしい王になったようだ」
「恐ろしい王?」
「そう。あの子のせいでポリスが一つ滅んだ……」
メムノンはそれ以上は語らなかったし、それからもバルシネの退屈な暮らしは変わらなかったので、そんな会話をしたことさえ忘れてしまっていたのだ。

朝食を終え一人になった。また、今日もいつもと変わらない。これからもずっと変わらないだろう。
花の咲く庭を眺めていた時、バルシネはあることを思い出した。
暑い夏の日。ペラの宮殿の中庭の木立の下にその子はいた。蔭が動いたのだろう、すっかり日なたになっていた。
地面の上に座って一心に何かしている。何をしているのだろうと、バルシネは近づいて行った。地面に木の枝で何か描いている。何かの模様のようだ。バルシネは少年に「何を描いているの?」と声をかけた。だが、少年は返事をしない。しばらくして、少年が顔を上げた。
「これは地図だよ。これがギリシャ。ここがボクたちが住んでいるところ」
少年は枝の先を右の方に動かしていく。
「ここがアナトリア、君が住んでいたところ」
その右側にも線が描かれている。
「そして、これがペルシア。悪いけど僕はペルシアを攻めるよ。やがて、ペルシアは僕のものになる」
それから少年はしばらく黙っていたが、やがて申し訳なさそうに小さな声で付け加えるのをバルシネは聞いた。
「だから……君も僕のものになる」
その時、地面の地図に黒い影が差した。見上げると大きな鳥が頭上を横切って行くところだった。

  • 筆者
    office-labyrinth
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