ささやかな奈落のはじまり①
(一)
月曜日の朝だった。玲子は新宿歌舞伎町を歩いていた。
この時間、街は夜の喧騒が嘘の様にひっそりと静まりかえり、厚化粧の下に隠されていた細部が明らかとなって薄汚れて見える。いたるところにゴミが散乱し、カラスがゴミ箱の上で睨んでいる。朝とはいえもうすでに気温が高く、あたりには異臭が漂っていた。
玲子はメモを片手にキョロキョロと辺りを見回している。
「ラヴィスマン」か、いったいどこだろう?
ビルの町名と番地が記された標識はメモに書かれている住所と一致しているのだが、なにせたくさんの店が入った雑居ビルばかりである。眼をあげては、いかにもいかがわしさが漂う店の看板を丹念に読んでいくのだが、目当ての店はなかなか見つからなかった。
もう諦めようと思って目を下ろすと、小さな看板を見つけた。
それはあまりにも目立たないもので、まるで人に読まれることを拒否している様だった。
これじゃあ、わからない、あぶなく通り過ぎるところだった。
小さな看板の先に、ビルの地下へと降りる階段があった。まるで奈落に降りていくような、古びた階段である。
そこを降りていくと、薄暗い廊下が続き、その先にいかにも古めかしい赤錆が浮いた重厚な扉があった。古びた木の看板が取り付けられていて、黒い字で「ラヴィスマン:Ravissement」と書かれている。文字の一部が消えてしまっていて、メモがなければ、目あての店とは判別できなかっただろう。
何語だろうか?
音と綴りを比較すると最後の「t」を発音していない。フランス語ではその様になると聞いたことがある。
通常はもっと目立つところに看板を置いておくはずだ。それにメニューなどもディスプレイしておいて、どのような店かわかるようにしておかないと商売にならない。これでは商売をする気があるようには思えない。
玲子はおそるおそるドアのノブに手をかけた。
その重々しい扉を開けるには、かなりの勇気がいった。だが、ここで帰るわけにもいかないと、思いきって扉を引いた。
ギギギッという音をたてて扉が開いた。地獄の入り口を開けたような音だった。
室内は薄暗く、中がよく判別できない。
目が慣れてくると店の造作がわかってきた。なんのことはない、簡素なテーブルと椅子が並べられているだけの普通の店だ。客はおらずガランとしている。
なんだろう?
玲子は室内の臭いが気になった。甘ったるい香料の香りに、何か別な臭いが入り混じっている。嗅いだことがある臭いだ。
玲子はそれが何の臭いか思い出した。これは男と女の臭いなのだ!
汗の臭い、牡と牝のフェロモン、それに愛液と生臭い精液の臭いが入り混じったむせかえるような淫靡な臭い。
身体の奥を突き回されているようだった。そんな吐き気のする臭いが壁や天井にべっとりと染みこんでいる。
たくさんの男女の嬌態が見えるようだった。
その瞬間、玲子はここに来たことを後悔した。