すべては秘密の夜から①
(一)
「さあ、どうぞ」
バーテンダーが褐色のカクテルが入ったグラスを真理絵の前に置いた。オレンジが添えてある。
「わぁっ、きれい。これがセックスなんだ!」
真理絵が驚嘆の声を上げ、すぐにセックスとあからさまに表現したことに気づいて、しまったという風に口に手を当てた。
「とても名前からは想像できないでしょう。飲んでみて下さい」
笑いながら啓太がいった。
真理絵はグラスに口をつける。
「甘くておいしいわ。とても名前からは考えられないわ……」
初老のバーテンダーがもう一つのカクテルを作っている。ジン、ベルモットとチェリーブランデーをタンブラーに入れてシェイクし、できあがった赤い液体をグラスに注いだ。
「どうぞ、キッス・イン・ザ・ダークです」と私の前に置く。
「いかにもカクテルらしいわ」
グラスを手に取って、私はそれを少し口に含んだ。
まず甘さが来て、その後に苦みが拡がる。とても刺激的な味だ。
「どうですか……?」
啓太が訊いた。
「とてもおいしいです。なんか口の中いっぱいに甘さが拡がって行く感じだわ……」
「先輩、赤いカクテルを口に運ぶところなんか、とても色っぽいですよ」
真理絵が私を眺めながらそういった。私たち二人はカクテルをすすりながら啓太との会話を楽しんでいた。
その時――なにやら派手な音楽が鳴った。真理絵はバッグから携帯電話を取りだしてメールのチェックをしている。
「ゴメン先輩、私、帰らなきゃ。親からメールが入ったんです。早く帰ってこいって――」
そういって真理絵が頭を下げた。
「じゃあ――私も帰るわ」
席を立とうすると、
「先輩はゆっくりカクテルを楽しんでてください。まだ、だいぶ残っているし――。それで、すみませんが、私の分のお勘定、立て替えておいてください。早く帰らないと親がうるさいんだな」
といって、頭に二本指を立て、ペロッと舌を出したかと思うと、真理絵は小走りに店を出て行ってしまった。
席を立とうとする玲子を啓太が押しとどめた。
「もう少し、いいじゃありませんか。あなたの様な素敵な人と楽しい会話がしたいから……」
と強くいう。
私はその言葉に負けて、「では……もうっちょっとだけ」と腰を下ろした。
どうせ家に帰っても待ってくれる人も居ない。もう少しここで大人の会話を楽しもう。
私はそう決めたのだ。
バックでサックスが魂を揺さぶる様な調子で歌っている。コルトレーンだと啓太が教えてくれた。
「そっちに移ってもいいかな?」
うなずくと、啓太がやって来て、隣に腰を下ろした。二人の距離がぐっと縮まった。
「浅井啓太です。貿易関係の仕事をやっているんです」
啓太は長い髪をかき分けながら言った。
「岩室玲子です」
「岩室さんか、変わった苗字ですね」
「岩村と良く間違えられるんですよ」
「さきほどのお嬢さんは、あなたの事を先輩と呼んでいましたが……?」
「会社で一緒に仕事してるんです。私がいろいろと教えて、指導先輩ってところですか」
「あなたの様なやさしい人に指導されるなんて、彼女も幸せですね」
玲子は、それがそうでもないのだといいかけたが、どうでもいい事だと思って止めた。