アレクサンドロス戦記(八六) 第四章③

(二)ミレトスの攻防

 ネアルコスは怒っていた。
「どうして船を加速できないんですか! 早くミレトスに着かなければ、すべてが台無しになってしまいます!」
ネアルコスは強い口調で抗議した。あまりの剣幕にギリシャ艦隊の司令官ニカノルが驚いて顔を向ける。そして、すぐにいつものふてぶてしい表情に戻った。
「速くと走れといってもな、君も船乗りだったから当然知っていると思うが、三段櫂船はゆっくりとしか進めないのだ」
「船乗りだった」、「当然」という言葉にやけに力を入れやがった、嫌みな野郎だ、とネアルコスは思った。
ネアルコスはギリシャ艦隊とマケドニア軍との連絡役に任命されていた。東征軍の総司令官であるマケドニア王アレクサンドロスの意をギリシャ艦隊の司令官であるニカノルに伝えるのが役目である。ところが、これが実に大変だった。伝えるだけではニカノルは動かない。彼を説得するのは一筋縄ではいかない作業だったのだ。
ニカノルはアテナイ人、ギリシャ艦隊の大多数を占めるアテナイ艦隊の総督だった男である。そもそも彼はこの遠征に乗り気ではなかった。戦争はアテナイ自身が望んだものではなく、マケドニアの力にねじ伏せられて仕方なく参加しているのだと思っている。その気持ちが言葉や態度の端々に表れる。一方、彼はギリシャ艦隊の船長達からたいへん信頼されているから、この男をうんと言わさない限り連合艦隊を動かせない。

ネアルコスはエフェソスで王からミレトス侵攻についての詳しい作戦を聞いた。ペルシャ艦隊が北上を続けている。遭遇するまでにできるだけ多くの都市を解放しておきたい。ハリカルナッソスにペルシャ海軍が集結し始めているらしい。すぐにミレトスにやってくるだろう。彼らより早く艦隊を送り込みたい。陸と海から挟み撃ちにすればミレトスは陥落する。
「今は季節風が北から南に吹いている時期だ。風に逆らって北上するペルシャ艦隊は櫂でしか進めない。北からの侵攻の方がずっと有利だ。どうだ、たやすい仕事だろうが」と王は笑った。ところが、それは王が言うほど簡単ではなかったのだ。

ネアルコスは三段櫂船を中心に大小合わせて一六〇隻からなるギリシャ艦隊を引き連れて、ミレトスに向かって出発した。三段櫂船は風の良い時なら、帆を張って時速一〇キロ程度は出せる。最初のうちは王が言った通り季節風が吹いていて、船団は順調に南下した。ところが、サモス島の手前で風が止んだ。凪が続く。そよとも風が吹く気配を見せないのだ。三段櫂船は毎日どこかに寄港しなければならない。人でぎゅうぎゅう詰めだから、荷物を載せるスペースは広くなく、一日分の水と食料しか積めない。
仕方なく帆を下ろして、島まで櫂で進んだ。途中、狼煙が上がっているのが見えた。煙の色や本数などであらかじめ伝達内容を決めている。黄色と白と赤が二本。「ペルシャ艦隊が近づいている。明日中にミレトスに入れ」という指示だ。ミレトスまではあと七〇キロ。風があれば七時間とかからないが、櫂で進むとなればたっぷり十四時間はかかる。途中には岩礁地帯があるから、夜間は危っかしくて航海できない。つまり、風が吹かないと明日中には着けないということだ。ともかく水と食料の補給をすませて、風が吹くように祈りながら明日を待った。
夜が明けた。が、依然として風は吹かない。櫂で進むしかないかとネアルコスは決断する。
それにしても、もう少し速く進めないものか。
軍船である三段櫂船は上下三段の櫂を人が漕ぐことによって進む船である。二〇〇人ほどの人間が乗りこみ、乗員の八割以上は漕ぎ手である。普通のペースで櫂をこげば時速五キロ程度でしか進まない。だが、戦闘時など、漕ぎ手が必死に漕げば時速十五キロは出るのだ。もちろん、このペースを長時間維持することはできない。だが、普通の二倍の速度が出せれば、今日中にミレトスに着くことができる。
だが、その気になるかどうか?
ここまでの道中、アテナイ海軍の状況を観察してきた。操船技術は決して褒められたものではなかった。さらにひどいのはやる気の無さである。
あのサラミスの海戦やペロポネソス戦争で見せたアテナイ海軍の栄光はどこへ消え失せてしまったのか!

三段櫂船は前部に青銅製の衝角がついている。敵船の胴に向かって突進してこれを突き刺す。つぎに後退して衝角を抜き、穴を開け相手を沈没させるのだ。いいタイミングで後退しないと衝角が抜けず、自分の船まで沈んでしまう怖れがある。高度な操船技術とよく訓練された漕ぎ手が必要なのだ。
これでペルシャ海軍と戦えるだろうか?
海戦のない年月が彼らを堕落させてしまったのだ。これではまともにペルシャ海軍と戦えば勝利は覚束ないだろう。その考えがネアルコスの頭の中に焼き付けられていた。だが、ともかく約束通りミレトスに着かねばならない。それにはニカノルをその気にさせなければならないのだ。

  • 筆者
    office-labyrinth
«

サイトトップ > 小説 > 紙尾真二郎 > アレクサンドロス戦記Ⅰ > アレクサンドロス戦記(八六) 第四章③