アレクサンドロス戦記(五四)第二章⑰

「いかがですかな、欲しいものはございませんかな?」
これを猫撫で声というのだろう。嫌らしいほど滑らかな男の声がした。
「当面は間に合っている」と、ラクリスの声。
どうやら後ろの方で、料理人のラクリスと従軍商人のアザルが話し合っているようだ。ニコはパン焼きを続けながら、二人の会話を聞いていた。
「ご用とあればいろんなものがご用意できますよ。魚はマグロ、タイ、ホシザメ、鱈、カレイ、エビに牡蠣、ホタテ、蛸、それこそなんでも手に入ります。それにいろいろなスイパイス類、クミン、コリアンダー、フェンネル、松の実。おいしいワインはいかがですか? シチリアワイン、クレタのレーズンワイン、甘いエレサスワインなど、なんでも取りそろいます」
「そうだな……ハーブが足りないから、ちょっともらおうか? ニンニクと胡椒とコリアンダーも持ってきてくれ。ワインは今のところは間に合っている」
ラクリスが注文を出した。
「承知しました。女はいかがです。舞妓は宴会に欠かせません。音楽に合わせて歌い踊る。乳首が透けて見える薄衣を着てね。いかがです。いい女が揃っております。横に侍らせて酒を飲むのもよし、それとも……」
「戦さの前だぞ! それにそれは俺の仕事ではない。だが、一体女をどこから連れてくるのだ?」
「それはいろいろで……ギリシャ女に、アラブの女、色の黒いのも白いのも選り取り見取りでございますよ。テーバイからの奴隷が大量に出回っていますので、女も値崩れしております。お安くしておきますよ」
アザルが気持ちの悪い笑い声をあげた。ラクリスは少し気が動いた様子だったが、すぐに真面目な口調で、
「それは戦に勝つまでお預けだな……これから厳しい行軍がまた始まる」と否定した。
「左様でございますか、お申し付けがございましたら、いつでもお届けいたしますよ。早速、ハーブはお届けいたします。ところで、ラクリス様はプトレマイオス様がたくさんの宝物をトロイから持ち帰られたのをご存じですか?」
「宝物? 聞いていないが。確か、プトレマイオス殿が戻ってきたのは陛下の帰還より後だった。そうかトロイから宝物を持ち帰ったのか」
「そうでございますよ。これはプトレマイオス殿の部隊の方から聞いたので間違いありません。トロイで陛下が隠されていた宝を発見され、それを持ち帰ったのだそうです。それに少女も一緒だとのことでございます」
「少女? なぜここにいる?」
「それは私にも分かりかねますが、それは、それは、美人だとの噂でございます」
「それにしてもお前は地獄耳だな……」ラクリスが感心する。
「いえいえ、いろいろなところに出入りするうちに、勝手にいろいろな事が耳に入ってきますものですから……」とアザルは笑った。
「で、その娘は今どこに?」ラクリスは興味津々で訊いた。

「予言者のアリスタンドロス様のところだそうです。陛下が彼のところならともかく安全だろうと仰ったとか……」
ラクリスがニヤリとした。
「そうか、アリスタンドロスのところか、ほんの目と鼻の先じゃないか。確かに、あいつのところなら安全だ。あいつは少年専門だからな。ここのところ天幕が締め切られているので、変だと思っていたのだが、一度、どんな娘か見てみたいもんだ」
ラクリスは下卑た笑い声を上げた。

――危ない。テーバイと聞いたところで逃げ出しそうになってしまった。気をつけないとおいらがテーバイから来たことを見破られてしまう
ニコは安堵のため息をついた。でも、いつどこで身元が割れ、奴隷にされてしまうかも知れない。
――十分に注意しなければいけない
安心は出来ない。会話ひとつ取っても、いたるところに身を滅ぼす陥穽があるのだ。ニコは身辺に十分に注意しようと思った。それにしても、アリストドロスの処にいる少女とはどんな娘だろうか? ニコは興味を覚えた。

トロイで囚われ人となった若い姫君だろうか?

そんな娘がニコのすぐ側の天幕で寝起きしているのだ。
――いちど顔を見てみたい
ニコの中に男としての興味が芽生え始めていた。

  • 筆者
    office-labyrinth
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