アレクサンドロス戦記(五六)第二章⑲
(七)バルシネ
バルシネは朝の光の中で目を覚ました。窓から微風が入ってくる。風は暖かく、素肌に心地よい。潮の匂いの他になにやら甘い香りが混じり込んでいた。
春――煌めく陽光の下で草木が芽吹き、花の香りが辺りを包む。すべてが鮮やかな色を取り戻す季節。冬の間の抑圧された気分から解き放たれて自由に羽ばたき、生きていることを楽しんでいる季節。
だが――バルシネは春が嫌いだった。
――春が私を狂わせている。
身体の奥からふつふつと熱いものが湧き出てきて、抑えようとしても抑えきれなくなるのだ。その衝動をなんとかしようと、強く乳房を扱き、股間に指を走らせる。だが、そんなことで火照った身体が収まるはずはない。かえって、熟れきった身体の奥深いところで燻り続けている熾火に油を注ぐだけだった。まどろんでは目覚め、火照った身体を慰め、またまどろんでは突き上げてくる欲情に目を覚ます。そんなことを夜通し繰り返していたのだった。
バルシネは二九歳。ここはトロイアの海沿いにある夫メムノンの邸である。
メムノンはロードス島出身のギリシャ人で、ペルシア帝国西方軍傭兵隊の指揮官である。このところ、戦いの準備に忙しいといって家に帰ってこない。歳は四六歳。バルシネとは親子ほどの年齢差がある。
バルシネはこの男と結婚するとは夢にも思っていなかった。かつて、彼は父アルタバゾスおかかえの傭兵隊の指揮官で、彼女が物心がついた頃からそばにいたからだ。
父はここヘレスポントス・プリギュラの太守(サラトップ)であったが、アルタクセルクセス三世オコスが大王に即位した後、ペルシャ帝国西方の他の太守たちとともに反乱を企てた。メムノンは兄メントルとともに父を助け、この反乱に参加した。ところが、大王は大軍を送り、反乱軍はこっぱ微塵にされてしまう。父は仕方なく家族を連れてマケドニアに亡命したのだ。その時、メムノンも一緒だった。バルシネが十一歳、メムノンが二八歳の時である。
メムノンとの結婚は決して愛があってのものではない。家と家の結びつきによるものである。それに、メムノンと結婚する前、バルシネは彼の兄メントルの妻だったのだ。メントルが急死したので、兄の地位や財産をメムノンが引き継いだ。そして、邸や家財と一緒に妻も相続したに過ぎない。それから、もう四年が過ぎ、二人の間には息子までいる。