ささやかな奈落のはじまり⑤
気がつくと玲子は布団の上にいた。出掛けたときと変わらないワンピース姿だった。
かなり古い造りの畳敷きの部屋である。欄間の入念な細工などから、十分にお金をかけた建物であるとわかった。
廊下の先にあるガラス戸から日が差し込んでいる。
光の角度からみると、昼はとうに過ぎているようだ。
部屋の隅に一人の青年が坐っていた。スポーツ刈りで、作務衣姿だ。
青年は立ち上がり、玲子の方にゆっくり近づいて来た。
玲子はこれから何が起こるのかと身体を固くした。
優しい声が聞こえた。
「お目覚めですか?」
柔らかな笑顔が目の前にあった。
「よく眠っておられましたね」
「ずっとそこにいたのですか?」
「ええ、あなたがここに着かれてから、そこに坐っていました。あなたがお目覚めになったら知らせるようにとのご命令ですので……」
「どのくらいの間?」
「そんなに長くはありません。一時間ばかりです」
「ただそこに坐っていたのですか?」
「ええ」
青年は静かにそういった。
この青年が自分を監視していたのは間違いないと玲子は思った。
クスリで眠らされ、この屋敷に連れ込まれた。目覚めて逃げ出さないように、監視するのがこの青年の仕事なのだ。
スポーツ選手のようにがっしりとした身体つきだった。ハンサムな顔立ちである。年は自分より下だと玲子は思った。
「夢を見ておられた様ですね」
青年が再び丁寧な口調でいった。
玲子はハッとした。あのおぞましい夢。あんな夢を見て自分がどんな反応を示していたのか心配になった。
「私、うなされていました?」
青年の顔に一瞬、迷ったような表情が浮かんだが、すぐに元の生真面目な顔に戻り、そのあと微かに微笑んだように見えた。
「そうですね……だいぶ、うなされていました」
「そうですか……恥ずかしいわ」
肌がじっとりと汗ばみ、パンティもびっしょりと濡れてしまっているのに玲子は気づいていた。
あの夢のせいだ。
こんなになってしまっている。ただ寝ていたわけではないだろう。
あられもない声を上げ、悶えていたのではないか? そして、その一部始終を見られてしまったのではないか?
玲子は恥ずかしさに身体がカーッと熱くなった。
そして、その思いをたち切ろうときっぱりとした調子で聞いた。
「ここはどこです?」
青年はじっと玲子の顔を見つめている。そして、優しい声で答えた。
「貴方が今日から暮らすお屋敷です。ご案内しましょう。お目覚めになったら旦那様のお部屋までお連れするよういわれております。さあ、よろしければ、起きてください」
青年はとても丁寧な口調でそう促した。
玲子は起き上がり、寝乱れた服を直す。そのとき、部屋の隅に自分の青いスーツケースが置いてあるのが見えた。あの新宿の店にさげていったものだ。
首元から漏れる肌の臭いが気になっていた。あの中に下着が入っている。この濡れた下着を着替えたい。
「あの……」と声を掛けようとしたが、青年はすでに廊下で玲子を待っている。着替えを諦めて、男に従うしかなかった。
廊下から庭が見えた。
よく手入れされた広い日本庭園だった。池があり、その周囲に植木が整然と配置されている。その奥には鬱蒼とした森が続いているように見えた。
静かだった。風の音しか聞こえない。
おや?
微かに別な音が混じっているのに気づいた。低い周期的な、聞いたことのある音。
波の音のようだ。
海が近いのかしら?
青年は廊下をどんどん進んでいく。玲子は遅れまいとついていく。
青年が立ち止まった。
部屋の前で跪いて障子越しに声を掛けた。
「旦那様、失礼します。お連れしました」
すると奥から、「おう」という太い声がした。