アレクサンドロス戦記(三一)第一章⑰

壁に大きな地図が掲げてある。その前で、アリストテレスが立ち止まった。
「ソロン殿、これが世界です。この中央に我々が立っているギリシャの大地がある。東には広大なペルシア帝国。北は蛮族が暮らす未開の土地。南は海、そしてその向こうにも大地がある。だが、そこから先はよく分からない……」
「おや? オケアノスがない!」
「お気づきですか……そう、どの地図にも描いてあるオケアノスはこの地図にはありません。我々が知りうる情報のみを記しているのです。ですから、分からないもの分からないとして空白にしています。想像するのは自由ですが、それはあくまでも想像です。想像を豊かにしすぎてウソを描いてしまってはいかんのですよ」
そこまで言うとアリストテレスは地図から離れて、光溢れる庭園に向かって歩き出した。
「私はここが好きでしてね。毎朝、この庭園を散策するのです。弟子たちとここで議論もします。この辺りは自然が豊かでね、この学園は自然を十分に取り入れるように建てられています。毎日、自然の光の下で身体を動かすと、頭脳が明晰になるのです。インスピレーションを湧き起こすのに、とてもいい環境です。どうか、こちらへ……」
中庭を歩いて行くと小さな家があった。
「ここが私の住居兼仕事場です」
アリストテレスは扉を開けて、ソロンを招き入れる。
部屋の中央には大きな木の机があり、その上にパピルスが散乱していた。ぎっしりと文字で埋められたものに混じって、なにやら奇妙な絵が描かれているのが見える。ソロンはそのひとつを指さした。
「これは、何ですかな?」
「ナマズです」
「ナマズ? その様には見えないが……」
「ナマズの解剖図です。腹を開いてます。今日の午後、皆でナマズを解剖してみることになっておりましてな、その講義に使うのですよ。以前、レスポス島にいた時に作ったものです。
あの頃、私は動物と見れば捕まえて解剖しておったのです。妻は嫌がっていましたがね……でも、そのおかげで生物のことが分かってきた。生き物を解剖して、身体がどのような器官から構成されているかを調べるのです。そして、その構造や習性などによって動物を分類していく……」
アリストテレスは得意げな顔で続けた。
「私の動物研究の考え方はこうです。
まず、動物に見られる『現象』を把握するのです。つまりどういう身体の構造をしていて、どういう器官を持っていて、どういう行動をするかですな。
これらの現象に基づいて動物を分けていきます。すると九つのグループに分類できる。たった九つですぞ。そう、いろいろな動物がいるが、結局は九つなんです。有節類、軟体類、軟殻類、穀皮類。魚類、ヘビ類、鳥類、鯨類、胎生四足類の九つです。
つぎに、それらの動物が住んでいる環境を調べます。これが『原因』ですな。その様な動物がなぜ存在するかという原因です。
そして最後に、原因からその現象に至る道筋『生成』を知ることで、はじめてその動物が理解できるのです。
動物は実にうまく環境に適合して生きているのですよ。本当に神を感じます。私はその様にして動物研究を続けてきました。
よく、お前はどうして動物なんぞ研究するのだと訊かれました。もっと人間を研究すべきだとね。だが、人間の身体は動物と同じ様な血、肉、骨、血管などから構成されているのです。動物と変わらないのです。つまり、動物を研究すれば人間のことも分かるのという寸法です」
「人間と動物が同じですと、こいつは驚きだ……」
「そうです……すべてのものになにがしかの意味があり、美が宿っていることを理解して、われわれは嫌悪感を抱くことなく、あらゆる形態の生命の研究に取り組まねばならないのです。
全ての分野において、私はこのような研究態度を取ろうとしています。現象を調べ、それを分類し、その原因を探り、それらの因果関係を系統立てていくんです。
おっと、貴方を立たせたままで、私ばかりが喋っている。すみません。私は学問の事を話し出すと止まらないのです」
アリストテレスは椅子をソロンに勧め、もうひとつ椅子を下げてきて、自分はそれに座った。
「さて、貴方のお話を伺わねばなりませんな。たしか、遠征軍に関するお話だとか……」
「ええ。実は、遠征軍に加わる方法を探しております」
アリストテレスは不思議そうな顔でソロンを見た。
「どうして遠征軍に加わりたいのですか……私は戦争なんか、まっぴらゴメンだが……」
アリストテレスが笑った。
「知りたいのです……ギリシャ連合軍がどのようにペルシア帝国と戦うのか? どのようにして、ギリシャ人の住む都市をペルシアから解放していくのか? これはホメロスやヘロドトス、ツキデテス以上に本を書くのに良い題材です……」
「ご本をお書きになるのですか……」
アリストテレスはソロンの顔をジロリと見た。ソロンは自分が値踏みされているように感じた。
「ええ、デルファイから離れて、暇になりましたのでね、歴史を書きたいと思っております」
「なるほど、歴史ね……それは面白い」
そう言うとアリストテレスは立ち上がった。
「まあ、くつろいでいて下さい。今、お茶を差し上げよう」

  • 筆者
    office-labyrinth
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