アレクサンドロス戦記(九)プロローグ⑨
神殿の地下の至聖所では、イリスが三本の長い脚を持つ鼎の上に縛りつけられていた。
その周りをアレクサンドロスとペルディッカス、そして数人の兵士達が取り囲む。
神託の言葉を記録するためにフローフテスが一人、立ち合っていた。直ぐ横に髭面の男が立っている。イリスはこの男にここへ連れて来られ、革紐で鼎に縛り付けられたのだ。男の脚や肘にはイリスが抵抗したことを示すひっかき傷がついていた。
イリスが鼎の上に座らされてからしばらく時間が経っていた。だが、神はいっこうに乗り移る気配をみせない。
イリスはマケドニアの王だと名乗る男が、じれ始めているのに気づいていた。
「どうした、なぜ、何も起こらない?」
アレクサンドロスがペルディッカスに食ってかかる。
「わかりません。ビュティアといってもこんなものかもしれませんな……」
二人の会話を聞いて、イリスはキッと顔を上げ、アレクサンドロスを睨んだ。
「ですから、冬は無理なのです! さきほどから申し上げているように、冬の間は神憑きが起こらないのです。それに――」
イリスの強い反発に興味を示したのか、アレクサンドロスが微笑みながら聞いてきた。
「それに? なんだというのだ?」
イリスはきっぱりと言った。
「こんな格好で縛り付けられていては、神託を行う気分にはとてもなりません――」
「フン。だから神託を出せないというのか。小賢しい女だ。だが、神託が出せないとお前はどうなるかな?」
その問いには答えず、イリスは先程から不思議に思っていたことを聞いた。
「あなたは神を信じておられない。それなのに――あなたは、どうしてそこまで神託を得ることにこだわるのですか?」
アレクサンドロスが驚いた顔でイリスを見た。その様な問いを発すること自体、いかにも信じられないという様子だった。
「なぜ、神託が欲しいかだって――いとも簡単なことではないか。それは、神託が人を動すからだよ。人は神の言葉を信じる。そして、神の言葉に従う。神が私の将来について語れば、その方向に人は動く。神がアレクサンドロスに従えと命じれば、人は何も考えずに私に従うだろう。私が神によって選ばれた存在であると告げれば、人は私をあがめ奉るだろう。だから、私は神の言葉が欲しいのだ」
「でも、神の言葉が……あなたの思い通りのものでなかったら?」
アレクサンドロスは吹きだした。そして、本当に可笑しいのだろう、腹を抱えて笑い転げている。ようやく、笑いが収まるとイリスに向かって話し始めた。
「失敬、失敬。あまりにも可笑しかったからな。神の言葉が思い通りのものでなかったらどうするのか――だったな。そんな心配はいらないのさ。神の言葉は曖昧なものだろう、だから、いかようにも上手く解釈することができる」
「では、私が神託を出せなかったら……」
「ビュティア、その時は――」
アレクサンドロスは真面目な顔に戻った。
「お前は役立たずということになる。その場合には――お前は生きている価値がない」
イリスは全身を強張らせた。
「お、恐ろしいこと……」
「私は――このアレクサンドロスが神に選ばれた者であり、それゆえ無敵であるという神の言葉が欲しいだけなのだ――ビュティアの口からな。お前がそう言えば、その言葉をフローフテスが記録する。私はそれを持ち帰り、皆に見せる。とても簡単な事だ――」
イリスは悩んでいた。
イリスは自分の運命がこの魔物のような金髪の若者に握られていることを知った。男はイリスに偽りの神託を求めている。それを行えば、この状態から解放される。だが、それは固く禁じられていることである。ビュティアはあくまでも神の言葉を伝えるのが役目――。
「どうやら、役立たずのようだな」
アレクサンドロスが言った。
「出来ないことを、これ以上待っていても仕方がない――」
アレクサンドロスは髭面の男を呼び寄せる。髭面はニッコリ笑ってイリスに近づく。そして、イリスの首に、ゆっくりと革紐を巻いていった。二重に巻きつけたところで、男がイリスに顔を近づけ、生臭い息を吹きかけて言った。
「さあ、観念するんだな――」
男の顔に嬉しそうな表情が浮かぶ。下卑た笑いを顔一杯に浮かべて、革紐を両手で絞る。紐がイリスの首にキリキリと食い込みはじめた。