アレクサンドロス戦記(二三)第一章⑨
(三)ネアルコス
(アンフィポリスへの船上 BC三三四年春)
帆を一杯に膨らませて、船は紺碧の海の上を滑るように進んでいる。
島の間を抜けると無数のカモメが群がってきた。ネアルコスが持っていたパンのかけらを掌にのせて差し出すと、鳥たちは掌の上からパンを啄み、彼の周囲を飛んでさらに餌をねだった。透き通る様な真っ青な空に綿帽子のような白い雲が浮いている。
――やはり、海はいい
大きな伸びをして、ネアルコスは潮の混じった空気を胸一杯吸った。海の上に居ると別人のようになれる。陸の上の生活とはまるで違った自由を満喫できる。
――やはり俺は海の人間なのだ
ネアルコスはつくづくそう思った。ペラでの暮らしを放りだして自由になりたい。だが、なかなかそうもいかない。これからマケドニア軍はペルシアに向けて侵攻することになっているのだ。
ネアルコスはクレタ島東部のラトで生まれた。
幼い頃から、船は生活の一部であり、季節による風向きの違い、潮の読み方、危険な海域の見分け方、それに天気の予測などについての知識をたたき込まれた。
船の設計師であった父とともに、家族はアテナイに移り、さらにマケドニアに併合されて間もないトラキア地方のギリシャ系都市アンフィポリスに移り住んだ。
近くに金や銀が豊富に産出されるバンガイオン鉱山があり、また船の建造に必要な木材にも富んでいたため、重要拠点としてアンフィポリスは急速に成長していた。
ネアルコスは父の船造りを手伝った。父が死んだのはネアルコスが十三の時である。そして、建造所を見学に来ていたフィリポッス二世に見初めらた。フィリポッスはネアルコス少年を気に入り、アレクサンドロスの学友としてペラに呼び寄せ、同時に十分に暮らしていけるだけの金を彼の母に送った。そして、ネアルコスはミエザの学校に入り、以来、アレクサンドロスの相談相手となったのである。
ネアルコスは好奇心の強い五つ下のアレクサンドロスから質問攻めにあった。
「ねえ、ロウディアス川の先はどこに続いているのさ?」
「海の向こうはどうなっているの?」
「船は風で進むなら、風の無いときはどうするのさ?」
「オデュッセイアの怪物ってほんとうにいるの?」
アレクサンドロスの矢継ぎ早に繰り出される質問に答えるうちに、よく分かっているつもりの事がほんとうは曖昧であり、自分がいかに断片的な知識でものを判断しているのかに気付かされるのであった。真実を追究しようとするアレクサンドロスの態度にネアルコスは舌を巻いた。
アレクサンドロスは、はっきりとした「自己」を持っていた。
それは、これまでの常識からはかなり外れたものであることが多かったが、よく考えてみるとこちらの方が正しいのではないかと思うことがよくあった。
一方で彼は自信家で、なんでも自分でやらないと気が済まない。危険を顧みず、むしろ危機を克服することを望んだ。ライオンと遭遇しても、彼は命を落とす危険を承知で闘うことを望んだ。人の力に頼って危機を脱しようとするのは恥ずべき行為だと考えていたようだ。
さらに彼は夢想家で理想を追い求めていた。枕元にはいつもホメロスのイリアスを置いて、夢の中で、英雄アキレスと自分を重ね合わせていたのだ。