アレクサンドロス戦記(二十)第一章⑥
フィロタスは悪夢にうなされて目をさました。身体中がべっとりと汗で濡れている。目覚める前に大声を出した記憶があった。
ここのところ同じ夢を何回も繰り返し見ている。隣を見ると妻が寝息をたてていた。フィロタスは静かに起き上がり、部屋の隅まで歩いていくと、壺から水をすくい取り、口に含んだ。冷たさが身体の中にしみ渡っていく。
――あれくらいでなんだ。お前は武将ではないか。若造ではあるまいし、なにをそんなに怯えることがある。
フィロタスは自分に向かってそう言い聞かせた。
あの日、フィロタスはテーバイを攻めるマケドニア軍の中にいた。トラキアでテーバイが反旗を翻した事を聞いて、急遽、軍が反転することになったのだ。
フィロタスはペルディッカスやプトレマイオスとともに、この攻めに加わるようにアレクサンドロスに命じられた。トラキアからテーバイ迄、たった一週間という驚異的な行軍を行って、マケドニア軍はテーバイの市を包囲した。
アレクサンドロスはテーバイから和議の使節が来るのをずっと待っていた。だが、待てど暮らせど使者は来ない。ついにマケドニア王は業を煮やし始めた。
「何故、テーバイは何も言ってこない?」
軍議の席で、アレクサンドロスは諸将に聞いた。
「市民をあおっている者がいるようです」
いつも冷静なプトレマイオスが言った。
「中からの通報によると、マケドニア軍の動きが余りにも速いので、陛下の到着が信じられないようです。リュケテンティスのアレクサンドロスが来ているのだと勘違いしている者もいるとか……」
リュケテンティスはマケドニアの北西部にある国で、ここにも王と同じアレクサンドロスという名前の王がいた。
「馬鹿な奴らだ、リュケテンティスがなぜ、テーバイを包囲するのだ。いつまでも現実を直視できない『まぬけ』揃いだな。だから、国が傾くのだ」
「仰るとおりです、陛下。早く攻めてテーバイを屈服させましょうぞ」
ペルディッカスが、がっしりとした身体を乗り出してきた。アレクサンドロスは居並ぶ将軍達を見回し、落ち着いた口調でゆっくりと話し始めた。
「いいかテーバイの奴どもは、父君の死でマケドニアが混乱し、弱体化していると考えている。このアレクサンドロスが力のない王だと思っているのだ。だから、トラキアとの戦をいいことに、挟み撃ちにしようと反旗を翻した。だが、彼らは間違っている。このアレクサンドロスを甘く見すぎている。
いいか、諸君! マケドニアを甘く見た者がどういう運命を辿るのか見せてやろうではないか! このアレクサンドロスをみくびった者がどのような地獄を見るのか思い知らせてやろうではないか! テーバイはアテナイが援軍を送ってくると考えている。アテナイはおそらく様子をうかがっている。少しでも我々が弱みを見せたら最後、アテナイも牙を剝く。そうなると周囲の国々もアテナイに同調する。これからペルシアを攻めようと言うときに背後に狼がいるのはかなわない。よって――われわれは素早く、かつ徹底的にテーバイを叩く! 反撃の芽を完全に摘んでおくのだ」
アレクサンドロスの頬が赤みを帯びてきた。
「諸君! われわれはテーバイ軍を殲滅する。そしてテーバイを完全に消滅させてしまうのだ!」
アレクサンドロスが力をこめて言い放った。諸将の間でざわめきが起こった。
「消滅させる? 陛下、それはどういう意味でございましょう?」
プトレマイオスが聞いた。アレクサンドロスは不気味な笑みを浮かべる。
「文字通りだ。テーバイを廃墟にするということだ」
「数々の歴史のあるテーバイを滅ぼせというのですか?」
フィロタスが聞いた。
信じられなかった。テーバイと言えばアテナイ、スパルタに続く大ポリスである。それを歴史から消してしまおうというのだ。
「そうだ、建物を打ち壊し、住民はすべて殺すか、奴隷にする。そして、テーバイは歴史から消える――」
「陛下、徹底的に破壊するのですな」
ペルディッカスが確認した。
「そうだ、ペルディッカス。私に反逆すれば完全に叩きつぶされるということを人々の記憶の中に刻みつけるのだ。残虐であってもいい。仕打ちが残虐であればあるほど、心の中に恐怖が植え付けられるだろう。もはや反逆しようという気を起こせなくなるまで徹底的に叩きつぶせ!」
「では、陛下、テーバイ軍を破り、この市を陥落させた暁には、何をしても無礼講だと兵達に伝えてよろしゅうござるか? 兵達はトラキアから激しい行軍を経てここにやってきて、かなり疲れております。彼らを奮い立たせるには相応の褒美が必要です。この町を好きなようにできると知れば、兵は陛下のために一生懸命働くことでしょう」
そこまで言って、ペルディッカスは王の返事を待った。
アレクサンドロスはちょっと考えていたが、すぐに「無礼講か? いいだろう!」と答えた。
ペルディッカスはうれしそうな顔をして、深々と礼をする。
「ありがとうございます。兵達に言ってやりましょう。戦いに勝ったら何をしても、それを赦すと――」
フィロタスはもう黙っていられなくなった。
「ですが、そんなことをすると軍は秩序を失い、制御不能に陥ります」
アレクサンドロスの冷たい視線がフィロタスを射た。
「構わん! 今回は無礼講を許す。ただし、期限をつけるぞ。我が軍が市壁の中に入ってから、丸一日の間、兵達が何をしようと目をつぶろう。だが、それ以降は、規律を守ってもらう。一日の間、十分に楽しむとよい。では諸君、戦いの準備をするのだ」
その言葉で軍議は終わった。そして、テーバイは地獄と化したのだ。