アレクサンドロス戦記(十二)プロローグ⑫

神殿に静寂が戻った。
大きな揺れはそれほど長くは続かず、揺れ戻しも来なかった。
ソロンは祭壇の前にしゃがみこんでいた。イリスが連れ去られ、コリーナが殺された。それからしばらくして、アレクサンドロスと兵士達が神殿から現れ、町の方に去って行った。そして、地面が揺れたのだ。
神の怒りだとソロンは思った。こんな冒涜を神が許すはずはない。
一人の男が神殿から飛び出してきた。その獣の様な顔をソロンは忘れない。コリーナを殺した男だ。

その男はデルファイの町の方へ慌てて走り去っていく。その背中をソロンは見つめた。
神の怒りはあの男には届かなかった――そう考えると虚しさでいっぱいになった。

神殿は一体、どうなったのか?

ソロンは無性に心配になってきた。イリスはまだ外へ出てこない。
――無事だろうか?いや、あの地震で無事な筈がない。
助け出さなければならない。恐怖のあまり力が抜けてしまった身体に鞭打って、ソロンはやっとのことで立ち上がると、神殿の入り口に向かってヨロヨロと歩き出した。
前室に入ってすぐの処に髭面の男が倒れていた。鼻から血が流れている。周囲の床に、天井の破片が散らばっていた。その一つが男の頭を直撃したようだ。

前室は差し込む光で明るく、壁に刻まれた文字が鮮やかに浮かび上がっていた。ソロンは壁に書かれた文字を読んだ。
〈汝自身を知れ〉
罰が当たったのだ、とソロンは思った。神に逆らって上手くいく筈がない。
床は天井から落ちた石材で、足の踏み場もないほどだった。壁もかなり被害を受けている。
ソロンはゆっくり中に進んだ。外からの光の中にアポロンの精悍な姿が浮かび上がっている。その隣には運命の神モイラが厳しい顔で立っていた。

これらの像は無事だった。神託所は大丈夫だ。直ぐに元通り、神託を始められる。
その時、ソロンは床の上に黒い跡があるのを認めた。至聖所の方へ点々と続いている。その跡をたどる。
何か異様な音が聞こえてきた。音楽の様な、啜り泣くような、そして地の底から呻くような声。
――至聖所の方角だ。
ソロンは足早に階段を降りる。すぐに異様な臭いに気づいた。ガスが出ている。先程の地震で岩の割れ目が拡がったのだろうか。その割れ目はちょうどビュティアが坐る鼎の真下にある。
呻き声がした。
ソロスはその方向を見て、思わずとぴ上がった。コリーナの瞳がソロンを見つめていたのだ。

かっと眼を見開き、大きな口を開けている。異様な表情だった。

生首だ。生への執着に満ちた無念の形相。血まみれの生首が、床に転がっている。
眼を上げると、そこにイリスがいた。
それは、もはやソロンが知っているビュティアではなかった。

  • 筆者
    office-labyrinth
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