ささやかな奈落のはじまり③
しばらくして、ケバケバしいメイクをした無愛想な女がやってきて、サンドイッチとオレンジジュースをトレイごとガシャリとテーブルの上に置くと、すぐにまた店の奥に引っ込んでしまった。
「どや、ねーちゃん。旨そやろう、どんどんお食べや……」
男が強く勧めるので、玲子は仕方なくそのサンドイッチを頬張り、オレンジジュースで流し込んだ。オレンジジュースはやたらに甘ったらしく、喉に閊えたが、ともかく、それを飲み干してグラスをテーブルの上に戻した。
「ええ、食べっぷりやな。ええわ、ええわ」
「……」
「さっきもいうたけど、これから車でお屋敷に向かうんや。ちょっと時間が掛かるけど、車の中でゆっくりしてもろたらええわ」
男はもう一度、玲子の全身を眼で舐め回した。
「どや、も、用意はええか?」
玲子は仕方なく頷いた。
「そんなら、そろそろ出かけまひょか。そこんとこに車置いてんのや。ちょっと歩いてもらわなあかんけど、すぐやさかい、ついて来てぇ……」
男はサッと立ち上がるとレジに向かう。財布から五千円札を取り出して、「マスター、つりはええわ」と四十くらいの男に渡した。
「田中さん、いつもありがとうございます」
男がニヤリと笑い、田中もニヤリと笑い返した。
田中は入り口のドアを軽々と開け、「ついてきてや」と言うと、どんどんと階段を駆け上っていく。玲子はあわてて男の後を追った。
朝日に溢れた新宿の街がまぶしかった。
十分も歩いただろうか、すでに日差しが強くなっており、額に汗が滲んでくる。
ビルの陰に黒い車が止めてあった。田中は後部座席のドアを開け、「さあ、ねーちゃん、乗ってや」と促す。玲子は腰をかがめて中に入った。
「ちょっとこのまま、待っててや。電話せなあかんとこあるさかいに……」
ドアが閉められ、玲子を後部座席に残したまま、田中は携帯電話に向かって何やらさかんに喋っている。玲子はガラス越しに、男の姿を眺めていた。
外から中が覗けないように窓硝子に処理が施されているのだろう、車の中は薄暗い。そこから外を眺めると、今歩いてきた新宿の町がまるで作り物のセットのように見えた。拵えた世界の中で人形たちがゆっくりと動いている。
玲子は欠伸をした。猛烈な眠気が押しよせてきたのだ。電話をかけている男の動作が非常にゆっくりしたものに感じられた。
眠い、とてつもなく眠い。
次第に意識が遠のいていく。頭を振って我にかえる。その繰り返し。
「おかしい? ……ひょっとして、さっきのオレンジジュース!」と思い当たったが、玲子の記憶はそこまでだった。