アレクサンドロス戦記(三二)第一章⑱
アリストテレスがお茶の準備をしている間、ソロンは机の上のナマズの解剖図を眺めていた。魚の腹が開かれて、引き出された贓物が細密に描かれ、その上に矢印を描いて、各部位の名前が書き込まれていた。ソロンは今までに魚の内臓など見た事もなかったが、多くのブヨブヨした器官が小さな腹の中に一杯に詰め込まれているのに驚いた。
ソロンはナマズに飽きて、それを机に戻すと、隣にあったパピルスを手に取った。
今度は猿である。猿が両手を開いて磔にされていた。胸から腹にかけて縦に切開され、その間から赤白色の内臓が露出している。極めて精緻に描かれているから想像図ではないことは明らかである。
茶碗がふれあう音がした。お茶の用意ができたようだ。
直ぐ背後でアリストテレスの声がした。
「さて、もう少し詳しく、あなたの話を聞かねばなりませんな……」
その声と同時に、がっしりとした手で肩をつかまれた。
「な、何を……」
ソロンが全部言い終わらないうちに、肩越しに手が現れ、喉元に短剣が突きつけられた。
「動くな! この剣はよく切れるぞ。その絵の猿のように、喉から腹まで一文字にかっさばくことなどたやすいものだ。そうなりたくなければ、本当の事を喋るのだ!」
「ううううっ……」
ソロンは呻くことしかできない。そのまま、時間が過ぎる。ようやく、ソロンは唾を飲み込んで、なんとか言葉を喋り始めた。
「わ、わたしは……ほ、ほんとうの事を喋っています」
「そうかな? 先程言ったように、動物学の手法は人間にも当てはまる。それを使えば、君がどんな人間で、何を考えているか、すべて分かってしまうのだよ、ソロン君。君は何かたくらんでいる、君の心の中は、恐怖と怒りで満ちあふれているようだ。君に最初に会った時、それが分かった。歴史を書く……それだけではないだろう。ソロン君、デルファイで何があった? 君は一体何をたくらんでいるんだ?」
ソロンは身体がブルブルと震えるのを抑えることができない。口の中がカラカラに乾いていた。
「あ、あなたを騙すつもりなどないのです! 歴史を書くというのは本当です。私は真実の歴史を書きたいのです」
ソロンは声を上げた。だが、剣の刃先がソロンの首に、さらに食い込んでくる。
「まだ、ウソをつく気か! なら仕方ない。君の生命はここまでということだな」
アリストテレスはそう言うと、笑いながら、剣を強く握りしめた。
「ま、待って下さい!」
ソロンが言った。うわずった声だった。ソロンはこれが自分の出した声なのかと訝った。
「喋ります……本当の事を喋ります……私には未だしなければならない仕事があるんです。ここで死ぬわけにはいきません」
アリストテレスは腕の力を緩めない。静かな声で、「本当に真実を喋るのだな」と念を押した。
「ええ、喋ります……ですから、その剣をどけてください」
不意にアリストテレスの表情が柔和なものになった。
「よろしい」
アリストテレスはソロンの首から剣を離すと、前にある椅子にどかっと座った。手にはまだ短剣が握りしめられている。
「さあ、ではソロン殿、真実のところを聞かせてもらいましょうか」
アリストテレスはニッコリと笑いかける。
ソロンは観念したように話し始めた。
「私は、さきほども申し上げましたとおり、長い間デルファイの神官をしておりました。デルファイでは未来について神の言葉を伝えます。
神の言葉は多くの場合、曖昧なものです。言葉を理解するにはそれに関わる背景についての知識が必要なのです。
神の言葉を正しく解釈してはじめて、大いなる勝利が得られます。その逆に、誤った解釈をして、その意味に気づかずにいると、奈落に落ちていく例も多数見てきました。
私はデルファイの神事を司るとともに、ひたすら託宣をいかに解釈すべきかについて研究してきたつもりです。神託にはまやかしも多々あるのですが、私と一緒にやっていたビュティアのイリスは、正真正銘の神憑きで神の言葉を喋ることができる人間でした。
あの日、マケドニア王のアレクサンドロス様が兵士をつれ、神託を求めてデルファイにやって来られました。私は初めて王にお会いしたのですが、すぐに圧倒されてしまいました。
全てを見通すようなあの青い目。歯に衣を着せぬ言葉。そして、妥協を許さない態度。これによって、隠れていたものがすべてあからさまになり、今までバラバラだった物事が本来の意味を持って動き出すのです。明晰ではあるが暴力的ですらある行動。それは私を徹底的に打ち据えたのです。
その日は神託所が休みでしたが、だからといって、あきらめてお帰りなられるようなお方ではございませんでした。アレクサンドロス様は無理矢理にビュティアのイリスを引き出して、神託を強要されたのです。
イリスには身の回りの世話をしていた女奴隷がおりましたが、彼女は供犠の捧げ物として殺されてしまいました。その死は大きな衝撃と悲しみをイリスに与えたのです。そのせいで彼女は気がふれてしまいました。生きてはいますが、すべての希望が失われて廃人同様となっております。
デルファイはビュティアの交替を余儀なくされたのです。そして、私もあの事件以来、デルファイの神官を辞めたのです」
アリストテレスはいぶかしげに眼を細めた。
「辞めたのは、事件の責任を取ってということか?」
ソロンは顔色が変え、食ってかかる。
「あの事件では、私に落ち度など有りません! 従って、責任をとる必要などないのです。そうではなくて、あの時、私は神の声を聞いてしまったのです」
「神の声?」
「そうです。神の声です」
「それは王が得た神託のことか?」
「いいえ、違うのです」
ソロンはゆっくりとした口調で話し始めた。