アレクサンドロス戦記(四一)第二章④
(二)上陸とトロイア巡礼
アレクサンドロスを乗せた三段櫂船はヘレスポントスの真ん中で静止した。牝牛が連れ出され、犠牲として捧げられた。従者が用意した黄金の鉢から、アレクサンドロスは酒を酌み、海にそそいだ。その一部始終をカリステネスが記録する。一連の儀式を終えると王を乗せた船は主隊から離れて西に向けて進んでいった。
「陸地が見えるぞ、船長」
アレクサンドロスが指し示す先に入江が見えた。
「あれが、アカイア人(ギリシャ人)の入江か?」
そう尋ねられて、三段櫂船の船長は戸惑った。
「はっ、陛下、あれは……」
「あれがアカイア人の入江かと聞いている」
「さて……確かに入江には違いありませんが、あれがそういう名前かは……」
船長は案内人を呼び寄せて訊いた。案内人がかぶりを振っている。
「アカイア人の入江というのは聞いたことがないようです」
船長が申し訳なさそうな顔で王を見た。
「馬鹿ものどもが! かのトロイア戦争のおり、アカイア人が最初に上陸した場所を知らんのかっ!」
「ですが……それは遙か昔のことでございまして……あの入江には、とくにそのような言い伝えはないように思いますが……」
怒りの表情がアレクサンドロスの顔に浮かんだ。だが、彼はそれをなんとか押さえ込んだ。
「わかった、もうよいっ! だがよいか、これからはあの入江をアカイア人の入江と呼ぶのだ。皆にそう申し伝えよ!」
「はっ、陛下……あれは、間違いなく陛下のおっしゃるアカイア人の入江で……」
船長の追従にアレクサンドロスは苦い顔をした。
「よし、あそこに船を寄せよ。上陸するぞ!」
船長があわててアレクサンドロスを制した。
「陛下、この船で余り近づくと浅瀬に乗り上げて危険でございます。もう少し寄ってから、ボートで岸までまいりましょう」
再びアレクサンドロスは嫌な顔をした。
「面倒だな。仕方が無い。早く用意せよ!」
ボートが下ろされ、甲冑を着たアレクサンドロスが乗り込んだ。数台のボートがいっせいに岸を目指す。岸に近づいたところで、アレクサンドロスは立ち上がり、槍を取った。目の前に広がる砂浜めがけて槍を投げようというのだ。
「いいか、この地はこのアレクサンドロスによって征服されるのだ。皆の者よく見よ! 私の放つマケドニアの槍がこのアジアの大地を捉える時を! よしっ!」
アレクサンドロスは槍を肩に担ぎ、投げようとしたが、小さな船はぐらぐらと揺れて足下が定まらない。
「えいっ!」
アレクサンドロスが思い切って槍を投げた。とたんにその反動で船が揺れて、尻餅をついてしまった。槍は放物線を描いて砂浜に飛んでいったが、うまく突き刺さらず、砂の上に倒れた。
「船を着けよ!」
アレクサンドロスが大声で叫ぶ。船が岸に近づくと、アレクサンドロスは待ちきれず、飛び降りた。ザッザッと砂を踏みしめて槍の方に近づく。そして、不格好に倒れている槍を掴むと、それをぐさりと砂に突き刺した。
「諸君! 古の昔、アカイア人はこの地に降り、トロイアと戦って打ち倒した。以来、ギリシャはここを守護してきたが、ペルシアに奪い取られ、長らくその支配下にあった。だが諸君、今、アレクサンドロスはアカイア人の入江に下りたった。マケドニアの槍がこのアジアの大地を捉えたのだ。この地は再び、わがギリシャのものとなったぞ!」
呆然とアレクサンドロスの行動を見つめていた兵たちは、その言葉で何が起こったか悟り、あわてて声を上げた。
「おおっ! アレクサンドロス陛下、万歳!」
「マケドニア万歳!」
声は次第に大きくなり、しまいには大音声となって、殺風景なトロイアの砂浜に響いた。
このようにして、アレクサンドロスのアジアでの第一歩は、つつがなく踏み出されたのだった。