アレクサンドロス戦記(十五)第一章①
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第一章 戦の準備
(一)ヘファイスティオン
(ペラ BC三三四年春)
黄昏時、薄暗くなった回廊を一人の青年が歩いている。
中庭にはまだ日の名残りがあるが、それを取り囲むギリシャ風の柱廊はすでに薄暗くなってしまっていて、壁のケンタウロスのモザイク画も煤けたように見えた。ここはマケドニア王国の首都ペラの王宮である。
顔なじみの侍従が壁のランプへの点灯を奴隷に指示していた。近づくと青年に気づいて慇懃に頭を下げた。
「これは、これは、ヘファイスティオン様、ご機嫌麗しゅうございます」
青年の名はヘファイスティオン、マケドニア国の貴族である。
「王はどこにいる?」
侍従の顔に笑みが浮かんだ。
「アレクサンドロス様はお二階で、さきほどからあなた様をお待ちかねでございます」
ヘファイスティオンは頷くと、階段の方に歩いていった。大股に二階まで駆け上がり、すぐ東側へ向かう。そこがマケドニア国王アレクサンドロスの住居なのである。
二年前、マケドニア王フィリッポス二世が自らの婚礼の場で暗殺されるという事件が起こり、二十歳の息子アレクサンドロスが王位を継いだ。ヘファイスティオンは若き王の幼友達であり、学友である。
部屋の前まで来て声を掛ける。返事がないので、いつもの様に部屋に入った。だが、そこにも王の姿は見えない。
ふと頬に冷さを感じた。風が吹き込んでいるようだ。
バルコニーへの扉が開け放たれていた。
ヘファイスティオンは窓辺に向かう。バルコニーに立っているアレクサンドロスの姿が見えた。黄昏の中で金色の髪が風に揺れている。
「寒くはないのか?」
と、声をかけた。だが、マケドニア王は気がつかないのか、相変わらず遠くを見つめている。
「何を見ている?」
ヘファイスティオンはその横に立って、王の肩に手を置いた。王は遠くを眺めたまま、ようやく口を開いた。
「ヘファイスティオンか、面白いものだ――見ろよ!」
ヘファイスティオンは眼を凝らす。だが、眼下には夕暮れ時のペラの町の風景が広がっているだけだった。
「とくに変わった物は見えないが……」
王の視線は、満々と水をたたえた湖と、その先の夕陽に煌めくロウディアス川の流れに向けられている。ヘファイスティオンは自分の言葉が通じなかったかと思い、言い直した。
「湖と川しか見えない」
すぐに、からかうような声が聞こえた。
「もっと先だ……」
「その先だって……ウーン……何も見つけられん」
「川の先だ。川の先には何がある?」
「川の先? 川の先は海だ……だが、ここから海は見えん」
アレクサンドロスは依然、遠くに視線を置いたままだ。だが、その横顔が微笑んだように見えた。
「川は海に流れこんでいる。僕が見ているのはその海の先だよ、ヘファイスティオン」
「海の先? 島々がある」
「それから?」
「その先は……ペルシア? ……ああ分かったぞ。宿敵ペルシアなのか……」
「そうだペルシアだ。だが、ペルシアは広いぞ……その広いペルシアのもっと先だ。その先にあるものを僕は見ている」
「ペルシアの先? そんなものは知らんぞ。君は何か知っているのか……」
「ハハハ……僕も知らない」
「なんだ」
「ほら、子供の頃に一緒に習っただろう。この世界は円盤状になっていって、その外側を大洋が取り巻いている」
「ああ、思い出した……その大洋の名は、確か……」
「オケアノスだ。僕にはそのオケアノスがはっきりと見える」
「オケアノスが見えるって?! だけど、誰も見た事が無いんだろう」
「そう、クセノフォンの本にも書かれれていない……」
ヘファイスティオンはアレクサンドロスの愛読書が「アナパシス」である事を思い出した。アナパシスはギリシャの著述家クセノフォンが一万二千人のギリシャ傭兵隊を率いてペルシアのバビロンからギリシャまで退却した時の様子を記録したベストセラーである。
「そのオケアノスが君には見えるというのか?」
「そうだ僕にははっきり見える。僕はペルシアの岬に立っているんだ。暑い。太陽がジリジリと肌を焼く。周りには何も無い。植物の種類もこことは全く違っている。そして、眼の前に茫とした海が広がっている。島影など全く見えやしない。水平線の遠くまでが見通せるんだ。そして大きな波が打ち寄せている」
アレクサンドロスの顔が動いて、澄んだ眼でヘファイスティオンを見た。
「僕は――そこへ行くんだ! そこへ行って、オケアノスをこの眼で見る!」
うっとりと夢を見ている様な顔だった。勇猛果敢に戦っている時とは全く別の、少年の顔だ。
この顔が好きだ――とヘファイスティオンは思った。
この遙か彼方の世界を真剣に追い求める純粋な少年の顔。それはともに学び、暮らした少年時代から全く変わっていない。
だが、アレクサンドロスは今やマケドニアの王である。そして、マケドニア軍ばかりでなくコリントス同盟の司令官としてペルシアを討とうとしているのだ。